第3回 社会人特別講義 武田康孝先生(独立行政法人 国際交流基金)★前半★

突然寒くなってしまいましたね。秋も終わりなのでしょうか‥
皆さま、いかがお過ごしでしょうか。

10月16日(水)に、国際交流基金の武田先生を講師としてお迎えしました。

今回は、少し内容が長くなってしまったので、前半後半と2部に分けてご報告致します♪
忘れずに後半もお読みくださいね!

武田先生は、幼少期から外国に興味を持っており、高校在学中にはマレーシアに1年間留学し、民族も言語も様々な人々の中で暮らすということを経験しました。大学では社会言語学を専攻し、故郷の北海道の方言について研究されたとのことです。

マレーシア留学時代

卒業後はNHKでアナウンサーとして社会人生活を始めました。初任地の釧路ではやることなすこと失敗ばかりの「劣等生アナウンサー」でしたが、3年目の1997年、自分のその後の人生を左右する大きな出会いがありました。同郷北海道の作曲家(で高校の先輩でもある)、伊福部昭さんに関するドキュメンタリー番組を提案し、制作に携わることになったのです!

伊福部昭さんの紹介映像(NHKアーカイブス)

伊福部昭さんご自身への取材を進めるうちに、戦時中に伊福部氏が軍部から依頼を受けて戦意高揚を目的とした曲を作曲していたという事実を知り、衝撃を受けたといいます。番組を制作したあとも、興味の向くままその時代に関する書籍や論文を読むうちに、社会や政治と芸術・文化との関係性について深く考えてみたいと思うようになりNHKを退職し、東京大学大学院の文化資源学研究専攻で、文化政策について研究し始めました。

修士論文では、放送局で働いた経験を生かし、日本の近代における西洋音楽と放送をテーマになさったそうです。日本でラジオ放送が始まったのは1925(大正14年)です。多数の人々に、同時に同じ情報を送るという特徴を持つラジオは、聴く人の娯楽の幅を大きく広げました。クラシック音楽をはじめとする洋楽は放送開始から頻繁に流れていたので、洋楽には当初から特別な意味があって多く放送されていたという説がありますが、先生は当時の資料や文献を確認し、「ラジオは放送開始時から厳しい『事前検閲』があったので、より多くの聴き手が本当に聴きたかった落語や講談、浪花節といった種目を放送するときには細心の注意を払わなければならなかった。一方で洋楽には言葉がなく、あったとしてもほとんどが外国語で検閲される心配が少なかったので、おのずと洋楽の放送量が増え、結果として洋楽は放送の重要なコンテンツとして浮上し、認知されることになった」などと主張なさったそうです。

NHK時代も研究には役立っています

博士課程でも引き続き、洋楽と放送との関係性に関する研究を続けられています。洋楽は、放送のコンテンツとして軌道に乗った後しばらくの間、教養の向上や、聴く人の心を潤したり楽しませたりすることを目的として放送されていましたが、戦時期になると、国威発揚や戦意高揚といった「国のための」洋楽放送へと意味づけが変化していきました。しかし資料に当たっていると、そんな制限された状況下でも、番組制作者や音楽家たちは、自らの実現したいことや理想とすることを番組内容に反映しようという努力を惜しまなかったことも読み取れ、とても興味深いと仰っていました。

これらの研究を通して、「文化や芸術(政策)を論じるときには、国や権力を持つ側の公的な発言や行動、結果だけを見て論じていては不十分だ」ということを学んだそうです。「様々な環境やプレッシャーのもとで、文化の担い手(放送であれば番組制作者や音楽家など)一人ひとりがどのような理念や方法をもって、どのような行動を取り、結果としてどのような成果を生み出したのか(生み出さなかった/生み出せなかった)のかということを細かく見ていく必要がある」「そうした『マクロ』と『ミクロ』の視点を組み合わせて考えることで初めて、ある文化が辿ってきた営みの道筋というものが見えてくる」と先生は仰っていました。



(後半につづく)

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